Adult Children
アダルトチルドレンについて
アルコール依存症の親のいる家庭で育ち、その影響を成人後も抱える人々の事をこう呼んだ事が始まりであり、現在は機能不全家庭(育児放棄、虐待、ギャンブル、条件付の愛情等)で育ち、成人後も生きづらさを感じている人々の事を総称するものです。
病名ではありません。
自分が「アダルトチルドレンである」と思えばアダルトチルドレンです。
名称故に「大人になれない子供」「子供っぽい大人」などと誤解されやすく、自分自身調べるまでは誤解していました。
自分をアダルトチルドレンだと言う人を、甘えていると言う人も多いと思います。
親への恩を仇で返すようなものだと、親不孝だと思われるかもしれません。
けれど本人が幼少期をどう感じ過ごし、成人後もその時のどんな痛みを引きずっているのかは、本人にしか分かり得ません。
親が愛情のつもりであった事も子供には苦しみであったかもしれない、他人には見えないところで不当な“愛情”を受けていたかもしれないのです。
他人にも気付かれるような育児放棄や虐待ならば納得してもらえても、そういった証拠がない「条件付の愛情」「共依存」「仕事依存」などは理解されません。
共依存
アルコール依存症のパートナーを世話することで自分の意味を見いだそうとする人と、その人に依存するパートナーなど、「ある人間関係に囚われ、逃げ出せない人々」とされている。
家庭内暴力や虐待、支配的な親と子供など。
自分の人生を相手の人生と重ね合わせ、支配したり必要以上の世話をやくことで相手に依存し、相手もその人が居なければ生きられなくなる。
だが共依存者も被共依存者もその状態に苦しみ、アルコール依存症などの患者は回復から遠ざかり、支配される子供は自立のできないまま大人になり、親から離れてもまたそういった共依存のパートナーなどを探し依存する。
共依存者自身がアダルトチルドレンであったりパーソナリティー障害を抱えている場合が多い。
人の痛みを大小で判断して計る事はできません。
本人にとってはそれが一生抱え続ける痛みであるなら、それを認め吐露し自分の心を整理する事で克服する事が必要だと思います。
今回のテーマは、そのアダルトチルドレンの子供目線で描いています。
自分はまだ誰かの親ではないので子供目線でしか描けませんが、子供は大人が思っている以上に親を見て、たくさんの事を感じ、考え、心で記憶していきます。
その記憶が大人になっても悪影響を与える事になるんだと思います。
幼少期にあいた穴を大人になってから埋めようとしても、どうする事もできず足掻き苦しむ、そんな経験は誰にでもあるのではないでしょうか?
その穴がなぜできたのか、それを考え幼少期の痛みを認め整理する事のきっかけに、「アダルトチルドレン」という言葉はなってくれると思います。
参照「内なる子どもを癒す」C.Lウィットフィールド 著
この本の中で、「内なる子ども」「インナーチャイルド」という表現があります。
そういった分野の中では色々な呼び方をされるその存在は、本来私たちの誰の中にも存在する、何よりも自由でエネルギッシュな、創造的な満たされた部分、リアルな自己、とあります。
いくつになっても自分の中の子供の存在は確かに感じます。
それは「子供っぽい人」という意味とは違う、唯一残された純粋な部分、という感覚に近いような気がします。
その「内なる子ども」の欲求が幼少期にどれだけ満たされたか、それが成人した後の自分自身に影響を残すんじゃないかと思います。
欲求を否定され、自由を許されず、「ありのまま」である事を肯定してもらえないと、「内なる子ども」には慢性的な不安、恐れ、混乱、虚しさがもたらされます。
けれど実際、健全な愛情、教育、慈しみを受けて育った人がどれだけいるのか、計り知れませんが5〜20%ではないかとあります。
残りの80%以上の人が、適切な愛情などを受けられずに育ったのではないか、それは現代を見れば容易に頷けると思います。
自分が健全な側か不健全な側か判断するのの目安として「回復の可能性調査表」が載せられていました。
一部を抜粋して載せます。
1決してない 2滅多にない 3時々 4よくある 5いつもある
で判定してみてください。
1)他人の承認や確認を求めますか
2)自分の業績を認めるのが苦手ですか
3)批判を恐れますか
4)何事もやりすぎる方ですか
5)自分の強迫的行為で問題があったことがありますか
6)完璧を求めますか
7)自分の人生が順調にいっていると不安になりますか
8)自分を他から疎外する方ですか
9)自分自身の、あるいは他人の表示する感情をしばしば疑う方ですか
10)自分の情緒を表現するのが苦手な方ですか
3、4、5がひとつでも当てはまった方は、この課題が身近であるかもしれません。
不遇に耐えることに慣れ、自らそういった立場につことする人もいるそうです。
アルコール依存症の親を持った人が、同じアルコール依存症のパートナーを無意識に選び、親を助けられなかった罪の意識をパートナーの面倒をみることで償おうとしたり、
自分の意志を抑圧されてきたせいで自分に意志、欲求があることを認められず、いつでも相手を優先してしまったり、
生き延びてきた環境によって、そこを出ても尚その家の黒い影を背負って生きていくことになるのです。
親に愛された、という確信が持てないと、自分は人に愛される人間ではないんだと思ってしまいます。
そして「適切な愛され方」を経験していないと、「適切な愛し方」が分からないのです。
頭で知って理解しても、経験していないことを実行するのは難しいことです。
この問題には、「支持的で安全な人々」に嘆き話すことが有効だとされています。
要は信用できる友人、パートナー、或はカウンセラー等に相談すること、ありのままを相手に話すことで、その話を自分が聞ける、というのが必要だといいます。
一、二度話しただけでその話を消化できるわけではないので、とても時間のかかる作業です。
個人差はあるでしょうが、数ヶ月、数年、そういった単位で解決していくしかないのです。
親を責めるのではなく、「起因」であると捉えた方がいいと本にありました。
実際責めても何も変わりません。
けれど「許した」と言うのも違うのです、そう簡単に許せることではないのですから。
責めるのではなく、そういった事実があったことを自分に認め、人に認めてもらう、そうして現在の親と自分の関係を見直せればいいんじゃないかと思っています。
その「認める」という行為は考えるよりも難しいことです。
自分を否定した方が楽ですし今までの逆をいくわけですから容易なことではありません。
自分は絵の助けを借りてその行為を試しています。
そして自分の絵がいつか、ほんのちょっとでも誰かの助けになればいいなと、思っています。
▲加筆20120407